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結婚に関するブログは基本的に女性向けですが、こちらの記事は男性向けに記載しています。過去の記事と一部内容が重複しています。

一連のブログ(特に後半)を読まれて反感を持たれたり、著者の道徳観を疑う方も少なくないと思います。政治的にNGな言葉のオンパレードになってしまい(今回もですが)、内容的にもだんだんおかしな方向に向かっていてこれ以上書くのはマズそうなので、結婚シリーズはそろそろ終わりにして、問題の背景とかに関しては別のブログに分けて記載しようと思います(このブログから辿れるようにします)。

現在の晩婚化・非婚化・高齢出産に対して女性の変化が及ぼした影響はもちろん大きいのですが、男性の変化も少なからず影響していると思います。変化といっても、急激な環境の変化に振り回されているだけで、人間の性質自体が変わっているわけではないと思いますが。

前回まで主に女性が考え方を変えるべき余地がかなりあるということを書いてきたのですが、自分自身と人類の未来のために男性も少し変わらなければいけない部分があると思います。それは女性が社会進出しやすいように家事を手伝うといった細かい話ではなくて、男と女というものをどのように捉えるかという問題です。

過去の記事と重複しますが、人間は一度に出産できる数が少ない(通常一人)、出産の負担(胎児の大きさと産道の比、二足歩行など)による制約のため未熟な状態で出産せざるを得ないので育児に手がかかる、出産可能な間隔が長い等、一人の女性が出産できる子どもの数は制限されます。

その一方で、出生する男女の比率はほぼ1:1であり、過去にも大きく偏ることは無かったと考えられていること、栄養・衛生状態・医療の歴史からして生殖可能年齢を超えて生存できる割合は多く見積もっても2~3人に1人であったこと、そしてそのような状況が過去数百万年も続いていた(そうでなくなってからほんの千年単位しか経っていない)ことからして、現存する人間の先祖の女性は少なくとも、生涯に平均して4~6人くらいは出産をしていたことになると思います。
このように、現代の格差や貧困とは次元の違う過酷な環境で、しかもほとんどの人の寿命がせいぜい30ちょっとだったころから考えて、本当に驚くような数字ですが、生まれてくる子どもの半分が男性、さらにその半分以上は早く死んでいるので、これより少ない数字ですと、世代間の人口比率が1より小さくなり、数百万年の間に人口はゼロに収束しているのではないでしょうか。
実際には大きな疫病や飢饉などを乗り越えてきたことを考慮すればさらに高い出生率であったと思われます。

現代、先進国の日本では子どもの半分以上が成人前に死んでしまうような状況はとても想像ができませんが、そういったことが人類の歴史のほぼ全てといっていい程に長く続いているので、人間の性質はそのような生活(出産時期・数)に最適化された状態から大きく変化していることはないと思われます。現代のような生活環が最適なものとなるような遺伝的変化が生じるにはあまりにも年数・世代数が少ないということです。

長くなりましたが、ここまで前置きです。それで女性というものをどのように捉えてどのように行動する必要がありそうかということですが、まず「女は女としてしか生きられないようにできている」ということを前提にすると良いと思います。

思い思いの生き方を自由に選択できる性質を持っている男とは違い、女は(男に対する相補的な存在である)女としてしか生きられないようにできているようです。そのことは、女自身がどのように思うかと関係なく、また善悪や平等といった近代的な理念とも関係ないし、男女の優劣を意味するものでもなく、本人および人類の存続にとって本当に重要な性質です。
男性の皆さんは、女性の興味が食べ物と恋愛、もしくは恋愛に関連の近いものに集中しているという点を気にされたことはありませんでしょうか?
食べ物と恋愛は言うまでも無く生存と種の存続に直結するものです。最後に挙げたものは、具体的には自分自身の姿の顔貌や体型、髪型、衣類、装飾品、肌の露出度といった、少なくとも異性の関心を引く可能性がそれなりにあると客観的に了解できるもののことです。これは少女マンガの影響だけではないと思います。

もちろん先進国であれば何らかの趣味や専門知識というものを持つことが普通で、上記以外に対しても興味を持つ女性がほとんどですが、ここで挙げた物に少なからぬ興味を持つこと、その比率は男性の比ではなく、そのこだわりは幼少期から始まり、老人まで続くことも少なくありません。
男から見たら何が違うのか分からない服を選ぶ為に多くの時間を浪費することを全く惜しまない一方で、男の趣味の物や理論的・根本的な機能の違いを説明しても一蹴されてしまうことは少なくないと思います。

先に述べた出産の見積もりは、女が半分しか生まれない、大きくなる前に半分以上は死ぬという計算から最低何人産んでいたと思われるということなのですが、ここでさらに妊娠出産につながる行動に興味を示さない、参加しようとしない女性の割合がそれなりに多いとなると、30歳程度の寿命で少なくとも4~6人は産んで(さらに言えば育てて)いたという驚くべき見積もりをさらに何倍にもしなければいけなくなり、非現実的な数字になってしまいます。世界人口は1000億からスタートして現状まで減ってきたわけではないのですから、少なくとも数の点で現在人類が過去よりも繁栄しているということはつまり、「女は女としてしか生きられない」という性質があった「おかげ」であると考える他ありません。

何かについて「できない」とか、「どうしても~~してしまう」という言葉は、そうでないよりも劣った状態という印象を持たれることがあるかもしれませんが、それはそのような性質をもつ本人がどのように感じるかの問題であって、本人(および人類全体)にとって良いことか悪いことかというのはまた別問題です。これは怪我をして痛みを感じることと同じです。
女が女としてしか生きられないことは男女の優劣ということではないし、むしろ人類にとっても本人(の未来の幸福)にとっても必要不可欠で、現にそれがあったから現在の人類があるということに気付けば、女性自身ももっと肯定的になれると思います。そもそも男女の優劣ということ自体に意味がないのですが、高い所に手が届かなかったり寂しさに弱かったり急に不安定になったり、本人にとって「そうでなければ良いのに」と思うような性質も、ほとんどの女性に見られる以上、それは多数派、メジャーであり普通のことです。
若くて、生き方の選択肢がある(と思っている)時期に本当に自由に生きてしまったら、その選択肢のない中年以降で本人も困ることになります。出産が人生設計のオプションであるとして、何十万世代という先祖のうちたった一人でもそのような選択をしていたら、現在の自分は存在せず、現に自分自身が存在しているのですから、

このような観点からすると、ホルモンの影響と言われる月経前後の不安やイライラ、性欲の変動なども、必要な排卵メカニズムに「仕方なくついて回る悪い副作用」などではなくて、その性質自体が有利なものであったのではないでしょうか。それは「男にとっても」必要な人間の性質であって、その性質を女が担ってきたというだけのことだと思います。むしろ、あえてそのように振舞う「あざとさ」に対して、男が魅力を感じるということはよくあることです。

ある程度の年齢まで結婚や出産よりも専門知識や専門的な仕事を優先して「頑張ってしまっている」女性が「今は結婚よりも仕事」とあえて発言することがあったとしても、女らしさがないわけでも恋愛に関心が無いわけでもなく、「私を褒めてほしい、私のしていることを正しいと言ってほしい、認めてほしい」という「乙女的な」発想そのものである可能性もあると思います。試しに表面的な同意や共感をしてみて怒るようだったら本当に言葉通りなのかもしれませんが、それで(男性の予測に反して)喜ぶようであれば、本当は「機会あらば」と思っている可能性もありますから、額面どおりに受け取らずに自分の対象リストに入れるか、それとなく誰かを紹介する等するのが本人のためになるかもしれません。
人間の複雑さと時代背景の影響で形を変えてはいても生物としての本質はそう簡単に変わるものではないので、男性には彼女たちの「乙女」な部分を見出して自ら接近しなければいけないと思います。

女の役割について先に述べましたが、一方で男の役割は、「競争」です。長い間、女は競争する必要がありませんでした。競争といっても必ずしも現代社会で見られるような競争ではなくて、異性獲得の競争という意味です。男の闘争心が女よりも強かったり、好き勝手な生き方をしたり、危険な趣味や好奇心のために寿命を縮めたり、平気で孤独なまま死んでいくことが多いのは、それらの行動が結果的に競争で有利になる「可能性もある」ということと、失敗しても誰か他の男が(重複して)女を「獲得」したから、人類が滅びることは無かったためではないかと一般的には考えられているようです。

現在の出生率からすると、妊娠出産を希望しているほとんどすべての女性が男性に不自由しない状態にならなければ、全体あるいは局所的に人口が激減する可能性があります。つまり選ばれる側の男性全体で、女性全体を満足させる連帯責任があるのではないでしょうか。より多くの男性が「競争」に参加しなければ足りません。不倫がダメという前提であればなおさら、他に良い方法はなさそうです。